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現在、以下のリンク切れがあります:2016年1-3月のプレスリリース・報道関係各位一斉メール・日報、2014年3月以前の動画、滞留水のPDF資料、2012年のプレスリリースの一部。2012年のプラントパラメータ関連の一部。詳細はこちら。

2016年8月21日(日)

今日のお仕事


プラント関連パラメータ(PDF) 午前5時時点 午前11時時点

滞留水の水位・移送・処理の状況(PDF)12時時点

1号機使用済燃料プール代替冷却系、1-3号機使用済燃料プール代替冷却系二次系の共用化工事のため、18日より停止中。停止時のプール水温は30.2℃。30日まで(13日間、約300時間)停止の予定。17日15:00のプール水温は30.0℃、18-30日の冷却停止期間におけるプール水温上昇率は0.053度/h、停止中のプール水温上昇は最大で約15.9度の見込み(運転上の制限値は60℃)。17日参照。
1号機R/Bカバー解体作業。22日まで休工。

多核種除去設備ALPSのホット試験。A系で2013年3月30日より、B系で2013年6月13日より、C系で2013年9月27日より実施中。A系とC系は2015年5月より実施していた長期点検・改造工事(2015年5月25日参照)が終了し、2015年12月4日より処理運転中。B系は2015年12月4日より長期点検・改造工事を実施中(2015年12月17日参照)
増設多核種除去設備のホット試験。A系で2014年9月17日より、B系で2014年9月27日より、C系で2014年10月9日より実施中。
高性能多核種除去設備のホット試験。2014年10月18日より実施中。

サブドレン他水処理施設、10:03に一時貯水タンクFから排水を開始
(以下、22日の会見資料より)16:46に排水を停止。排水量は978m3


その他


サブドレン他水処理施設、一時貯水タンクG(16日採取)と集水タンクNo.1(14日採取)の分析結果
サブドレン・地下水ドレン浄化水分析結果(PDF 16.9KB)
一時貯水タンクの分析結果は東電、第三者機関のいずれも運用目標を超えず。トリチウム濃度は東電が390Bq/L、第三者機関が410Bq/L。

構内排水路の排水の分析結果(2015年3月4日参照)。20日採取分。
福島第一原子力発電所構内排水路のサンプリングデータについて(PDF 286KB)
K排水路で濃度が上昇しているが、降雨による表層土の流入のためと考える。

1号機放水路上流側立坑でCs濃度が上昇した件(2014年10月23日)および2号機放水路上流側立坑で全β放射能(90Sr)濃度が上昇した件(2015年5月14、15日、6月22日参照)。19日採取分。
福島第一原子力発電所構内1号機、2号機放水路サンプリング結果(PDF 716KB)
2号機上流側立坑、18日に全βとCsが上昇してから、トリチウムが200-300位あったのがNDになってる。


福島第一原子力発電所の状況について(日報)【午後3時現在】(プレスリリース)


おまけ


「シン・ゴジラ」見てきました。ああいう映画なので、私もひとつ、感想などを。(ややネタバレあり)

見た人の数だけ感想があるような映画だったけれど、私は、後半で人々の「協働」が威力を発揮するところが素晴らしかったなぁ、と思った。巨災対のメンバーの協働、巨災対と巨災対が出してきた作戦を指揮・実行する技術者集団としての自衛隊との協働、作戦の決め手となる分子構造解析のための汎世界的な計算機利用での協働、作戦の遂行を支えた企業と巨災対や自衛隊との協働、自衛隊と米軍の協働、巨災対メンバーの仕事を支える内閣府職員の協働、そして、作戦の実現を支える政治家たちの協働、などなど。あらゆる協力関係において、すべての人達がひとつの目標に向けて自分のするべきことをひたすらにこなしていく。やることは人によってそれぞれでも、目標は常に共有されている。個人的な利益を優先するストーリー(失敗を他人になすりつけるとか、悪者を仕立てて自分を正当化するとか、自分の心情を守るために事実をゆがめるとか)はひとつも出てこない。だから、仕事の進捗にドライブ感がある。現実の世界だと、そうはいかない(例えば、自分の無能さから逃れるために、自分の持ち場を離れて反論できない人達の所へ出かけて行って怒鳴り散らす事で達成感を得ようとする、とかね)。だからこそ、映画の中で人々が目標を共有して協働しつつベストを尽くし、その困難な目標が達成されるのが心地よかった(でも、それが単純なカタルシスにはならなかったのは、ゴジラがマジ怖かったから。「やったー」というよりはズッシリとくる安堵だった。ほんとヤバかったわ、あれ)。
もうひとつ面白かったのは、登場人物に対する善悪の評価が一切出てこないところ。悪者とか良い者という表現がない。あるいは、良い行為、悪い行為という見せ方がない。あらゆる存在、あらゆる行為は、ただそのままに示されて、善悪の評価が貼り付けられることがない。普通の映画だったら、配役とか音楽とかその後の因果応報とか、そういうので善悪の記号が割り当てられるものだけれど、そういう演出がなかったと思う。失敗や無能はあるんだけれど、それらは失敗や無能であって、悪ではない。それはゴジラに対してもそうだった。ただあるがままに、もし善悪を割り振るとしたらそれは見ている人が「好きにしろ」。
見終わってから、なんだかよくわからないんだけれど、一種の開放感というか気持ち良さがずっと残っていて、それは、もしかしたら、これはこうだとかこうあるべきだとかいうことを誰かに強要される、あるいは決めてもらうというところから離れて、ただあるがままに自分の好きにする、ということの気持ち良さなのかもしれない。
あと、主人公が最後に着てきたカバーオール、1F仕様のやつなの?左右の胸のビニールのところ、微妙に大きさが違っていたり色が付いてたり、そもそもAPD装着をあれを着ることで確認する必要がないだろうし。1Fに関係なく使われてるものなのかしらん。

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